[随想:ロボット現役40年、いまだ修行中vol.6]40歳で突然の異動、事業部門の管理職に【前編】/小平紀生
研究所から製作所に
1991年、30代最後の秋に、研究所の上司だった渡辺光人部長に呼ばれ「稲沢製作所から声がかかった」と聞かされました。
研究所生活にドップリでしたので、その時は「もはや事業では使い物にならないと思います」とあっさり断りました。
身の程をわきまえていたのも事実ですが、今さら工場に出るのも面倒だというのが本音。
しかし翌年1月に再び部長室に呼ばれ「稲沢製作所の寺園成宏所長直々のご指名で、ソフトウエア開発を仕切る課長職のポストまで用意された。僕も工場に出たかったので君がうらやましい」とまで言われては、もはやイエスと答えるしかありません。
自宅に帰って転勤の話をすると、関西産まれ関西育ちの娘たちはパニック。ただし、当時小学校2年の次女は「おとうさんに会えなくなるの?」と、本人は引っ越す気はさらさらなし。ということで単身赴任が決定しました。
勝手の違う別世界
愛知県稲沢市にある稲沢製作所は昇降機とビルシステムの事業拠点で、FAシステム事業の拠点である名古屋製作所とは別系統のロボットを製造していました。
ロボット事業は開発部の管轄で、新規開拓事業として期待されていました。
92年9月に赴任して最初に拝命したのは、ソフトウエア開発グループマネジャー。そこでは、昇降機やビルシステムまで含めて全部門のソフト開発を統括することが求められました。
しかし、ソフトウエア開発の専門部隊を事業部門とは別にすることに反対でしたので、「ロボットのソフトウエアしか担当しない」と主張したところ、「それならばロボット技術を全部見ろ」ということで、翌93年にロボット設計課長を拝命。
バブル崩壊直後で大掛かりな組織改編の最中のこと。「組織の数を減らして若手管理職に任せる」という方針に合致したようで、経験も浅いのにえらいことになりました。