[随想:ロボット現役40年、いまだ修行中vol.2]第3次産業革命のさなかにロボット開発へ【前編】/小平紀生
ロボット研究室には入れず
前回書いた通り、私は中学時代に「将来はロボットに関わる仕事がしたい」と思い立ちました。もちろん具体的なイメージなど無くサイエンスフィクション(SF)のレベルです。
東京工業大学(東工大)に通っていた兄から「東工大には有名なロボットの先生がいる」と聞いており、運よく東工大に合格することができました。
有名なロボット研究者というのは、「ロボコン博士(ロボットコンテストの創始者)」としても知られる森政弘教授と、当時はまた助教授で「へび型ロボット」で著名だった梅谷陽二先生です。お二人とも後に日本ロボット学会の会長を務められ、現在は東工大の名誉教授になられています。
研究室配属の段階になると、梅谷先生の研究室を希望しましたが、希望者多数でじゃんけんに負け、油空圧制御の池辺洋先生の研究室に入りました。卒業論文の指導は中野和夫助教授でしたが、池辺先生も中野先生も後にフルードパワーシステム学会の会長となるほどの方です。
「じゃんけんに負けたからその研究室に」というのも失礼な話ですが、そこで鍛えられた制御技術はちゃんと後のロボットに結び付いています。
三菱電機なら今後…
4年生になると卒業後の進路を決めなければいけません。まずは大学院に進んで研究者を目指すか、企業に就職するかの2択です。
中学、高校と勉強はできる気でいたのですが、大学に入るともっと優秀な奴がたくさんいました。機械系全体では成績は結構上位だったのですが、人気のある機械物理工学科に入ってからは後ろから数えた方が早い成績でした。また、理論的な講義より設計実習などの方が面白く、自分でも研究者より実業の方が向いていると感じており、迷いなく就職を選びました。
次はどこの企業を選ぶか。就職したのは1975年で、その前年には第1回のロボット展で電動型ロボットが公開され、まさに電動の産業用ロボット夜明けの時代です。
当時、そのような動向を知っていたわけではありませんが、「就職するならやっぱり総合電機メーカーだろう」ということで、研究室の先輩の勧誘もあって三菱電機への入社を決めました。
――後編へ続く
(構成・ロボットダイジェスト編集デスク 曽根勇也)
小平紀生(こだいら・のりお)
1975年東京工業大学機械物理工学科卒業、同年三菱電機入社。2004年主管技師長、13年主席技監。日本ロボット学会会長などを歴任し、現在は日本ロボット工業会のシステムエンジニアリング部会長やロボット技術検討部会長、FA・ロボットシステムインテグレータ協会参与、セフティグローバル推進機構理事兼ロボット委員会委員長などを務める。東京都出身、67歳。
※本記事は設備材やFA(ファクトリーオートメーション=工場の自動化)の専門誌「月刊生産財マーケティング」でもお読みいただけます。
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